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父方の祖父と私が一緒に写ってる写真があります。白装束姿の当時75歳の祖父が、1歳の私を横抱きにして神社の鳥居の前で立っています。
白いアゴ髭を長く伸ばして胸の前まで垂らした祖父の姿は、威風堂々としてさながら由緒ある大神社の宮司のようであります。
祖父の素性は百姓です。百姓の祖父が何故神主が着るような白装束を身に着けていたのでしょうか。理由はこの写真が撮られた4年前の出来事にあります。
太平洋戦争が迎えたその年、出征していた6人の祖父の息子のうち、3人の戦死の知らせが祖父のもとに届きました。その時の祖父の受けた衝撃と悲しみは想像に難くありませんが、祖父のそれからは野良着を脱ぎ捨て白装束姿となって近郷の神社仏閣を訪ねて祈りを捧げる日々となったのです。
祖父の祈りが通じたのでしょう、戦争が終わって残り3人の息子は無事祖父のもとに帰ってきました。そのうちの一人、長男が私の父であったのですが祖父は3人の息子達が無事帰って来た後も、神社仏閣をめぐる習慣を私を横抱きにした写真を撮影した半年後に死ぬまで終戦後五年間、一日も欠くことは無かったのであります。
父は私がもの心ついた頃より毎朝素っ裸となって冷水を浴びて体を清め、フンドシ一枚の姿で家の神壇と仏前に手を合わせることを日課としていました。
死んだ3人の弟、自らも出征した南方の戦いで散って逝った同期の桜への鎮魂の祈りであったでしょう。一心不乱に祈る父の後ろ姿に子供心に近寄り難い異様な「気」を感じたことを覚えています。
靖国神社のことを祖父と父はどう考えていたのでしょうか。祖父にとっての靖国神社とは、日課として訪ね歩いた近郷の神社仏閣であったと思います。
父が靖国神社に行った、ということは無かった筈です。酔うと「死んだ者に顔向けが出来ない」が口癖だった父、無事生還を果たしたといえその日暮らしの「ナベカサ修理」の極貧の日々を生きる我が身を思えば、亡き戦友や弟達の眠る社にどのツラ下げて参ることが出来ようか、の思いではなかったのでしょうか。
機会があるごとに上京し靖国神社に参っていたのは母方の祖母でした。終戦の年の一月三日台湾海峡で特攻で死んだ一人息子が生前「死ぬな」と泣き崩れる祖母の方を優しく抱いて「靖国神社に来れば会える」と言い残した言葉を胸にの社参りでした。
誰が行こうと行くまいと、日本の祈りの靖国の日が、この夏またやって来ます。
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