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「死の恐怖」は人間の最大のテーマであります。
「死の恐怖」をいかにして乗り越えるか、宗教や哲学のみならず全ての学問はそのためにあった、といっても過言ではありません。
養老 孟司氏は「自分は死の恐怖を感じない」と仰せられております。
「何故なら死んだ自分の死体を見ることが出来ないから、見ることの出来ないものは[無い]と同じ、だから自分にとっての死は無いのだから恐ろしくないのだ」との論理でございます。
養老氏と同じ見解を古代ギリシャの哲学者エピクロスは「死は私と関係ない」と述べております。
「死はもろもろのうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとってなにほどのものではない。なぜかと言えばわれわれが存在しているときに死は存在せず、死が現に存在するときはわれわれは存在しないからである」
死によって人間は感覚を失うのだから、死を認識することはできなくなる、だから死を恐れる必要はない、という主張であります。
エピクロスはまた「快楽こそが善であり人生の目的だ」というまるでAV業界の代弁者のような「快楽主義」の論理哲学で知られていますが、それは放縦な性的生活を肯定するものではなく、秩序ある生活の中での欲望充足を「善」としたものであります。
「死の恐怖」とともに「性」もまた人間にとって最も重要なテーマであります。
「死」と「性」、この二つの問題を解決できたら、人生のおおかたの問題は解決出来た、といっていいのであります。
性の問題とは「満足と不安」であります。
自分の「性」のレベルはどの程度であるのか、そしてその能力は、と性の情報が溢れている現代では、誰れもが「性の脅迫観念」の捕らわれ人となっているのです。
谷崎潤一郎はこのことを「性的な過去の記憶と夢が、いくつになっても男を悩ませる」と語っております。
今日的には「男」を「男と女」と表記することが正しいのでしょう。
「性に絶対はない」AVの出現によって「性の無謬性の神話」は崩壊しました。
そこで繰りひろげられるホモ、レズ、SM、スカトロ、フェチといった多様な性は、食文化と同じく「性」とは極めて個人的、嗜好の世界のものである、との認知を促進しました。
納豆の好き嫌い、のように性も善い悪い、優劣でなく、好き嫌いの相性がすべてなのだ、との認識であります。
「人間は誰れもが死刑囚である」(パスカル)
死を深く意識することは「生と性」を何倍にも絢爛に輝かせ、色濃く解像度の高い人生を生きることに通じるのであります。
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